過去

脱字箇所など、ちょこっと修正入れました。(1/29)

2つ違いの姉がいる。

聞けば、物心付く前から異彩を放っていたらしい。

1人では起き上がれないくらいに太った体。その割りに利発そうな表情。

物怖じしない態度は、言葉を話せなくてもその存在を余すことなく主張していたと、母は話す。

保育園、小学校、中学校と、地域始まって以来の秀才と謳われ、児童会長、生徒会長、部活の主将と、

必ずリーダーを務めていた。

読書感想文では北海道なんとか賞に輝き、弁論を書けば全道大会で優勝。

絵も歌もそつなくこなし、少し苦手な体育でも、先に頭で理解することでカバーしていた。

文字通り、完璧な姉だった。


そして、完璧な姉をもつ妹の私は、残念ながら姉に全てを取られた搾りかすのように凡人だった。

小学生くらいまでは、姉と同じく優秀だと思って自分を「天才」などと名乗っていたが、中学に入ると、段々

とその違いに気づかされていった。

読書感想文でも、弁論でも、入賞どころか、学年代表に入ることすらなかった。

中学入学当初の中間テストはそれなりに頑張ったが、その結果を見た教師の

「出来て当たり前だよな。あいつの妹だもんな」という言葉に、なんだか一気に萎えてしまい、その後は適

当にやり過ごすようになった。

地元が大層田舎だったので、姉の優秀ぶりと、私のちゃらんぽらんぶりは、常に比較対象となっていたの

に段々と気がついていったのもその頃だったと思う。



高校受験を控えた姉に、札幌にある札幌市立高等専門学校への進学を親が勧めた。

はっきり言ってあまり興味のなかった私は、どういった経緯で姉と両親が話し合い、札幌高専への進学を

めたのかは分からない。

とにかく、色々とうまく噛みあった進路だった。

札幌市立高等専門学校は、建築などのデザインに重きを置いた5年制の美術系学校で、卒業すると短大

までの卒業資格を得ることが出来る。

専攻科もあり、いわゆる大学卒業の資格まで取れるという学校だ。

当然偏差値が高くなければ合格などできない。

デッサンの実技や面接もあり、志望理由などを明確に答えなければならないのだ。

父親は家具職人で、ログハウスなども建築していたし、その頃家族で近所の美術教師に絵を習っていた。

さらに高専がある場所は、毎年家族で行っているPMFという若手の演奏家にスポットを当てるクラッシック

コンサートの開催地、芸術の森にあるのだ。

母などは、運命だとはしゃいでいた。

そして、私は大体この時期から絵を習いに行く家族を見送る立場になった。

姉へのコンプレックスか、ただ単に絵にそこまで興味もなく、面倒くさかったからかは、今ではもう覚えてい

ない。


その後姉は見事高専に合格し、札幌で1人暮らしを始めた。

そうなると、私に残された選択肢は、札幌の高校に進学するか、帯広で就職するかだった。

私の家は田舎というより山にあり、地元の1番近い高校へも30キロ離れているため、下宿するより他ない。

そして決して裕福ではなかったので、姉と私の下宿代をそれぞれ払う余裕などなかった。

ということは、札幌で2人暮らしをするしかないということが容易に想像できる。

私に地元の高校へ通うチャンスはなかったのだ。

幸い私が通っていた中学校は僻地で5パーセント規制外の学校だったため、大都市札幌で自分のレベル

に合った高校を見つけるのにさほど苦労はなかった。


すんなり納得したわけではない。

同級生は私を含めて9人。保育園から兄弟のように過ごしてきた大切な幼馴染だ。

農家の子がほとんどだったので、60パーセントは農業高校に行くが、高校は別々でも地元ならばちょくち

ょく会うこともできるだろうと思っていた。

ただ、私の小さい頃の夢は、「歩いてお買い物に行くこと」。

都会の暮らしにも憧れてはいた。

さらに、マインドコントロールとでもいうのだろうか。

姉が札幌高専に合格してから2年間、事あるごとに

「あんたも札幌に行くんだからね。嫌だったら働くんだからね」

と母に言われ続けてきたせいだろうか。

それが自然の事の様に私の頭にインプットされていたのだ。

当たり前のように宣告された札幌行きに、大した抵抗もできず、普通科を志望校にした。

 


高校に入学し、姉との2人暮らしが始まると、勤勉な姉と怠惰な私の性格が、段々と浮き彫りになっていっ

た。

うまくいくわけがない。

仲は悪くなる一方で、私が2学年に上がる頃には、会話の全くない姉妹になっていた。


溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すには海外しかない!と、なぜか私は、勝手に留学機構に申し込みをした。

とにかく、遠くに行きたかったのだ。ここら辺がちゃらんぽらんと言われる所以かもしれない。

幸いか生憎か、英語の成績だけはよかったので、まんまと試験に合格してしまった。

事後報告に、当然ながら両親が大激怒し、札幌まで乗り込んできた。

忘れもしない最寄り駅前の焼肉屋での大喧嘩。

いい加減な動機を見破られ、責められ、わんわんと泣いていた。

それでもしっかり焼肉は食べていた所が私らしかったと、その後散々馬鹿にされたが。

結局許してもらえず、泣き疲れて寝てしまった私。

次の日目覚めると、レポート提出という条件付の許可が下りていた。

父がなんやかんや私の精神状態を分析し、その上で出した結論だったそうだ。

自分では、ただ留学したいと、ここから逃げたいと思っていたし、今でもそれ以外の理由はなかったと思う。

父に言わせれば、それだけ私の精神状態が”ヤバい”ところだったそうだが、そこまで客観的にあの頃の自

分を見ることは、未だに出来ていない。


留学の許可が下り、準備も着々と進む頃、母がぽそりと言った一言が、未だに忘れられない。

「あんたが泣き疲れて寝た後、お姉ちゃんにお父さんもお母さんも説得されたんだよ。”行かしてやってくれ

ないか”って。”私は行きたくても足元見ちゃって行けないからさ、自分でいつか行くから。もう試験は合格し

てるんだしさ。こんなチャンス滅多に来ないんだから”って。それでお母さんも考えるところがあって、お姉ち

ゃんと2人でお父さん説得したんだわ。感謝するんだよ?」


その時、きっと一生姉には勝てないと思ったものだ。

純粋に私を応援してくれていたのか、それとも私との2人暮らしが嫌だったのか。

姉にその話はしていないので、どうだったのかは分からない。

とにかく私はドイツへと一年間留学することができた。

 

日本に帰るその日、舞台の幕が緩やかに上がり始めることなど。

そして、自分がその舞台に深く関わっていくことになるなど。

その時の私は、知る由もなかった。

 

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