大人ですもん、ほら 3

ほんの一瞬、沈黙が走る。

 

「あっはっはっはっはっは!まっさかまさかですよ~石井選手!この僕こと山崎がですよ?おっさん街道なんて、そんな、加齢臭

のぷんぷんするような道をねえ、ひた走れるわけがないじゃないですか!いや、ほんと、生徒の皆さんはね?中学生ですから、

若いなんてもんじゃないですからね?普段僕はオジサンですけども~なんて話しているわけだけどもね?まあ28でオジサンなん

て言われたらねぇ、世の中オジサンで飽和状態になってしまうと思いません?ねえ、石井選手?僕なんてまだまだまだまだ若い

んですから。一日10キロとか走っちゃうくらい元気なんですから。いや、走っちゃうくらいって言っても、実際走っているわけではな

いんだけれどもね?それっくらい若いということを、ものすごく主張しているわけですよ!」

 

一気に喋り終え、ビールをあおる。菜穂子は、少し呆れた顔をしていた。

「ほんと、どうでもいいことで分が悪くなると途端にベラベラ喋るとこも変わってないわ、オッサンは。あ~あ、昔っからさあ、うるさく

てかなわないんだよね、ホント、オッサンが酔っ払うとさあ」

必至の言い訳もむなしく。

味のくどい油そばをすする菜穂子に”オッサン”と呼ばれてしまう。

そ知らぬ顔をしてメンマをかじる。

油がじゅわっと染み出してきて、残りは皿に戻してしまった。まだ麺もチャーシューも残っている自分の取皿に。

あまり噛まずに、ビールで流し込む。

 

自分の年齢が上がっていくにつれ、段々生徒達や同僚と、いい距離感を計ることができるようになってきていた。

体力には特に変化はないし、飲む量も食べる量も変わらず、物忘れも問題ない。今のところ全く違和感はない。

それでも、ポストに届く結婚式の招待状を見る度に、ため息をついてしまう。もうそんな年齢なのか、と。

自分のマンションのドアを開け、真っ暗な冷たい部屋の電気をつけると、妙に空しくなってしまう。

”結婚”を意識せずにはいられない。

そんな時ばかり、年をとったと実感するのだ。

 

「僕がおっさんだっけ、あれかい、石井はおばさんなんでないのかい?したって、同い年でしょう?僕らはねえ?」

ムッとした顔でこちらに向かれるが、痛くも痒くもない。事実は事実なのだ。

「ほんと、実家がうっさくて。ほら、あたし、釧路では実家暮らしだったべ?あれだわ、この年で親となんて一緒に暮らすもんでない

わ。毎日毎日結婚と三十路っちゅうワードを必ず露骨に出してくんの。たまったもんでない」

吐き捨てるように言う菜穂子。どこも状況はそんなに変わらないらしい。

 

「ああ、そうなんだ?俺もねえ、生徒の親御さんにそりゃあもう、会えば色々言われてますよ。今日だってさ、修学旅行のお迎えに来

てたマダム達にさ、バスガイドさんとはどうだった?綺麗でないの、アタックしなさいよ!とかってさあ、言われるわけ。したけど、そん

なことできるわけないっしょ?まがりなりにも俺、先生だしさあ。ましてや、学年主任も教頭も校長も勢ぞろいの上に、生徒の皆さんが

ねえ、また、冷ややか~な目で俺を見てるわけなのよ。したけどさ、やれいけ~それいけ~ってね。グイグイ押されて、遂にバスガイ

ドさんの目の前に辿りついてしまったのよ。いやあ、おば様方のパワーってあれな、もんのすごいのな?しかもねえ、なんかドサクサ

に紛れて色んなとこ触ってくるし、バスガイドさんは近づいてくるし、もう焦る焦る。向こうは何事かって顔で見てくるもんだから、いたた

まれないことこの上なくってさあ。あ、いやあなんか短い間ですが、どうもありがとうございました~。なんてヘラヘラ言ったら、もう、外

野のブーイングがうっるさいこと。挙句の果てに、なあんか訳分かっちゃったガイドさんが、先生もお疲れ様ですぅ、なんて言いながら

そそくさとフェイドアウトしてしまうもんだから、また大騒ぎんなるわけよ。困るんだよねえ、ああいうの。結局その後、ダメ出しをしこた

まくらってしまいましたよ」

 

途中からバンバンと、テーブルを叩きながら笑っているのは向かいの女。

ウケているものだから、こちらもべらべらと喋ってしまう。

もうお互いほろ酔いだった。外人のチラ見も気にならなくなっていた。

「いや~、山崎に比べたらあたしはまだましだわ!保護者だったら怒ったりできないもんね?大変だわ~先生は!」

 

でもさ、安心した。

 

少し抑えた声。

表情を見ると、穏やかで。凶暴な性格も忘れ、ついつい、見とれてしまう。

 

「楽しそうだもん、山崎の職場。おばちゃん達の気持ちもさ、あたしわかるんだよね。きっと愛されてる証拠だって。山崎ってさ、なあん

チョしたくなるんだわ。なあんか、こう、構いたくなっちゃうんだよ」

「…そうですかねえ?愛情表現なら、もう少し分かりやすく出してほしいですけどねえ?昔も今も。皆さんちょーっと過激なんですよね

え」

「はいはい。山崎は贅沢だねえ?こおんなに皆から愛されてるのにねえ」

勘違いはしない。

少し動揺しているのは、目をそらしてしまったのは、がざつな態度とのギャップを久しぶりに見て戸惑ってしまったから。

決して菜穂子の愛とかなんとかいったフレーズに反応したわけでは、ない。

 

気づけば10時になっていた。

「もうこんな時間かい。そろそろ篠田んとこ行かないと」

立ち上がる菜穂子に、何気なく話しかける。

「ああ、送ってこうか?歩いてですけどね。もちのろんで」

「役に立たなそうだから遠慮さしてもらうわ。どうせタクシーだし」

笑いながらジャケットを羽織る菜穂子。鞄を持ち上げ、財布から1万円を出し、テーブルの上へ置く。

そんな菜穂子の仕草を、一つ一つ、やけにじっくり見てしまっていて、反応が遅くなってしまった。

慌てて1万円札を差し戻そうとするが、「あたしが誘ったから」と言われ、強引に握らされてしまう。

福澤諭吉がくしゃくしゃになるのも気にせず、ぎゅっと、右手ごと、握られた。

 

したっけ、電話通じるようになったらまた連絡するわ。

 

さっさと行ってしまった。

あまりにもあっさりと。

こちらに奢らせもせずに。

一度もこちらを振り向きもせずに。

 

店員が近づき、ドリンクのおかわりを聞いてくる。

同じものを頼んだ。入店してからずっと同じ、サッポロクラッシック。

ビアホールだから、色々な種類があるのに。

目の前には、空の取皿。自分の残した油そばも、結局菜穂子の胃袋に収まった。

菜穂子の飲んでいたハートランドの瓶に少し残っているビール。

その瓶を、店員がさげていく。

グラスも、箸も、取皿も、菜穂子の使っていたものだけ、さげられていく。

タバコに火をつけながら、その作業を見つめていた。

取り替えられ、綺麗になった灰皿。

出掛けに買った赤マルの箱には、1本、申し訳なさそうに残っているだけ。

教師をやっているせいもあり、一日に吸う本数はそれほど多くはない。

しかし今日は、3時間ほどで、ほぼ1箱空けてしまった。

吸いすぎで、煙が少し気持ち悪い。まだ大分残っているのに消してしまう。

普段なら、シケモクでもお構いなしにケチケチ吸うのに。

 

口に残った煙を吐き出しながら、ゆっくり右手を開く。

案の定、くしゃくしゃの福澤諭吉

ぎゅっと握られた右手がジンジンしているのに気づき、思わず笑った。

あいつの握力は、自分のよりも強いのではないだろうか。

 

大学の卒業式、菜穂子の就職先が釧路だと初めて聞かされた時も、右手を握られた。

元気でやれよとか何とか色々言われたのに。

握手」と言って握られた右手しか、現実味がなかった。

 

あの時も、菜穂子はあっさり目の前からいなくなってしまった。

置いてけぼりにされてしまうこちらの気持ちなど、お構いなしに。

 

 

赤ちゃんみたいに温かかった菜穂子の手。

ため息をつく。

いつもと同じ結論だ。やはりここに行き着いてしまう。

本当に、自分はどうしようもないのだと、気づかされてしまう。

 

結局どうあっても、どんなにあがいても、自分は菜穂子をあきらめられないのだ。

 


 

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