佳美は大学の1年後輩で、入学時からかわいいと評判だった。
卒業して2年ぐらい経ち、サークルの同窓会で久しぶりに集まったときに、ずっと好きだったと言われ、あっさり自分の心は佳
美に傾いてしまった。
菜穂子に卒業以来会っていなかったせいもある。
自分に振り向かない凶暴な女より、目の前の、好きだと言ってくれるかわいい後輩の方が何百倍もいいではないかと思った
のだ。
実際、良かったのだろう。2年以上付き合ったのだから。
佳美は外見がいいだけでなく、内面も気さくで付き合いやすかったし、尽くしてくれた。
正直、あれほどいい女はなかなかいないと思う。
それでも、結局菜穂子を忘れられなかった。
札幌と江別という微妙な距離、教師という職業もあって、なかなか佳美を気遣ってやれなかった。
自分の仕事の都合を付けてわざわざ食事を作りに来てくれることも多かったのに、いつの間にか飯炊き女のように扱ってしま
っていた。
今でも最後に見た佳美の顔が忘れられない。
もう疲れた、頑張れない、と。涙でくしゃくしゃになっていて、それでも綺麗だった佳美の顔が。
引き止めることなど出来なかった。出来るわけがなかった。
いくら後悔しても足りない。自分が悪かった。
思うだけに、佳美の名前を聞くと、今でも反応してしまう。
「いや~、あたしはいい後輩持ったわ。これもひとえに石井様の人望のなせるわざですよね~、ほんとほんと」
勝手に納得しながら、今まさに店員がおこうとしているソーセージの盛り合わせに手を伸ばす。
ビールのおかわりも忘れない。こちらのジョッキも空になっているのに注文してくれない辺り、本当にふてぶてしい。
本当に、なんでこんな女が良かったのだろう。
好きになったきっかけすら覚えていないのに。佳美の方がよほどいい女なのに。
「いやいやいや、案外篠田も迷惑してるんでないの?嵐のような先輩が私の家を荒らしていくわあ、なんつってさ」
さむ!という叫びと共に、もう一度スネをけられそうになる。
今度は予想していたので椅子の下に足を隠しておいたお陰で免れた。
地団太を踏む音が、古い店内に響く。
「あのねえ!山崎が知ろうとしないだけで、あたしは人望があついの!老若男女もってもてなの!」
「はいはいはい、もってもての石井さんですよね。初めまして山崎ですどうもよろしく。随分とおもてになるらしいですが結婚のお
噂はまわってこないですけれども?」
「てめえ!なにか!結婚すれば勝ち組なのか!あ~もう!この話題終了!」
強制的に会話をきり、今来たばかりのハートランドを一気飲みする。
自己中心的な女だが、菜穂子がまだ独身とわかってほっとする自分も相当なものだ。
そんな話題を無理に持ちこんだ自分も。
クッと思わず笑ってしまう。
菜穂子がまだ独身だから何だというのだ。
今更にも程がある。
「そういう山崎はどうなのさ?」
篠田と別れてからさっぱり?
今度は本当に動きが止まってしまった。
ぽかんと、阿呆みたいに菜穂子を見たまま、何も言えなくなってしまった。
「何驚いてんのさ。あ、知らないと思ってた?残念~、篠田とはね、年1回は必ず会ってんの。あれ?山崎と篠田が付き合ってる
時も会ってたんだけどなあ。聞いてなかった?」
聞いていない。そんな話は一つも聞いていなかった。
「まあ大学時代あたしは山崎のことちょし倒してたからねえ。どうせあたしの悪口でも篠田に言ってたんでしょ」
「…いやあ、うん。あなたねえ、僕に対してひどかったからねえ。まるで怪獣のようだったから」
「ぶはっ!怪獣ってか!」
ゲラゲラ笑う菜穂子。しかしこちらはそれどころではない。
3人とも、同じサークルだったのに、仲間だったのに、何故佳美は菜穂子と会っていたことを自分に言わなかったのだろう。
そんなことが気になって、うまく笑えない。
しこたま笑った後、菜穂子がふっと真顔になった。
水滴がついたハートランドの瓶を、細く長い指が滑っていく。
「ごめん。あたしがべらべらしていい話しじゃなかった」
「いやいや、いいんですよ。篠田ってさ、あれだべ?こう、胸とか腰とか、ばーん、ぼーんって感じで、そりゃあもう、ヨダレもんの人
だべ?あんまりにも僕がヨダレをだらだらと垂らしてしまうものだから、もう、間違いなくドン引きされたんだと思います、はい。あー
私、こんな変態と付き合ってたなんて、一生の不覚よう!なあんて感じですよ?きっと」
冗談でその場を切り抜けようとするものの、菜穂子は許してくれなかった。
「じゃあお言葉に甘えて言ってしまうけどさ、この前篠田に会った時にちらっと聞いたくらいだけどね。なんか篠田は、山崎に他に好
きな奴がいるってずっと悩んでたっぽいよ?」
ジョッキに口をつけながら、それでも視線はこちらに向け続けている、菜穂子。
なんだか雲行きが怪しくなってきた。
菜穂子が好きなことを佳美に言ったことはない。
ましてや、誰にも言ったことはないのに。
「いやいやいやいや、そんな、そんなこと言ってしまったら、あれですよ?ほら、篠田さんに失礼じゃありませんか。あんな美人な方
に」
「知らんけどさ。まあ、あれだ。篠田も婚約したし、ホント、今更だったわ。ごめん」
今日は、驚くことが多すぎる。
「…ぇえ?何?マジでか?あー、そうか。いや、そりゃなんも、めでたい話でないの。いやーほんと、いかったわ。そうかそうか、結婚
するのか篠田」
寂しくないと言えば明らかに嘘だ。
菜穂子が忘れられなかったとはいえ、佳美のことはきちんと好きだった。でなければ2年も一緒にいられるわけがない。
どちらももう社会人だった。
好きと言い合って満足する時期はとうに過ぎているわけで、しっかりそれなりのことはしていた。
だからだろうか、下世話な想像をしてしまい、急に佳美が誰かに取られた気分になってしまう。
もう、いや、最初から。自分のものでなどないのに。
1年ちょっとで婚約なんて、こちらは恋人ができる気配もないのに、と、自分を棚にあげて佳美を非難してしまう。
そんな自分の小ささに、本当に呆れ返って、また、思わず自嘲的な笑いがこぼれる。
いいではないか。幸せになれるのであれば。あの泣き顔が、笑顔に変わるのであれば。
「なにさ、逃がした魚はでかかったってかい?」
顔を上げると、したり顔の菜穂子。
妙に的を射たその言い回しに、自分の口角が段々と上がっていく。全くその通りだ。
「…そうだねえ、うん。そりゃあそうですよ。あんなパイオツも懐もでーっかい女性なんてそんないないっしょ。まあ、あれですね。
要するに僕は馬鹿なんでしょうねえ?みすみすそんないい女を逃がしてしまった僕は」
ブクク、と。今度は対面から笑い声。
「ほんと、山崎は変わってないんだねえ?学校でもどうせそんな調子なんでないの?かっわいそうに。生徒はたまったもんでな
いべさ」
菜穂子の、こういう、絶妙なタイミングで出してくる苦笑に近い笑顔が、好きだったのだと思い出す。
現金なものだ。
あちらでは過去の女が結婚すると聞いて惜しい気分になり、こちらではやはり目の前の女に意識が奪われる。
どうしようもない。
「うん、まあ、あれだべね。篠田さんには、幸せんなっていただきたいもんだね。俺としてはねえ、それっくらいしか言えんわ」
いつか佳美と、また笑顔で会える日はやってくるのだろうか。
あの綺麗な笑顔を見られるだろうか。
そうなればいい。きちんと謝って、おめでとう、幸せなんだなと、言えるようになればいい。
油そばの器がゴトン、と店員によって置かれた。
菜穂子に取られる前に、慌てて器を抱え込み、自分の分を取り分けてから、菜穂子に渡す。
6年ぶりに食べたそ油そば。昔とは味が変わっている気がした。
3口程すすって、取り皿を置く。口周りについた油がなんとも気持ち悪くて、おしぼりで拭う。
「いや~、なんだべね。ここの油そば、こんな、脂っこかったっけか?」
ぶほっと今まで口に入っていたものを少し噴出す菜穂子。こういう汚い所も、変わっていない。
やっとの思いで飲み込んだらしく、顔を上げたときには少し涙目になっていた。
「ちょっと!笑わせんなや!あと一歩で死んでしまう所だったわ!」
「いやいやいや、勝手に噴出したのは石井選手でしょうが。僕のせいにしないでくれますかねぇ?」
「うわ、自覚ないんだこいつ、わやだ。あのね?これを脂っこいって感じるってことは、もう、アウトアウト。おっさん街道まっしぐ
らな味覚の変化なわけよ。まじで」
※「ちょし倒して」・・・からかいまくって/イジリまくって