

いつもは個室として使われているのだろうか、それともバックヤードなのだろうか。
6畳程の小さな部屋。
ホコリ防止用だろう。積み上げられた机や椅子に、白い布がかけられている。
そのひとつから布を取り、取り出した椅子に促されて座っていた。
綺麗な刺繍が 入った光沢のある座面。
キョロキョロしていると、救急箱と紙袋を持ったノブちんが重そうなドアを開けて戻ってきた。
「やーっぱさ、元木は元木なんだよなあ。どんだけ猫かぶってても、絶対どっかで化けの皮が剥がれんだよね。
しかも一番やっちゃいかんタイミングで」
この部屋まで間抜けな誰かを送り届けた時も笑っていた。
その最中も、くくっと、漏らしていた笑い声。
人気のないこの空間で、妙に響いている。
「べっつに、猫かぶってるわけではないんですよ?なあんか、あっという間に着せ替えられて化粧されて連れて
こられてさ?わっけわかんなくなってたあたしの気持ちとか、少しはわかってもらえてもいいんでないですかね?
それをまあ、さも頑張っちゃって痛いわこの子、なんて目で見るもんだから、余計調子がでなかったんですよ。て
いうかですね、一番猫かぶってる人に言われたくないんですけど?」
「猫もかぶり続けると皮膚の一部になってくるもんなの。ほら靴脱げ」
くるぶしに、冷たい感覚。冷シップ独特の香りが漂ってくる。
「俺のサンダル履いとけな。終わったら送ってってやるから、ここでおとなしく待ってろよ?」
紙袋から出されたのは、かろうじてビルケンのものだとわかる、薄汚れたサンダル。
「うげー、きったね。ノブちん水虫?水虫なの?移りそうなんですけど!」
ボカっと、頭頂部に鈍い痛み。救急箱の底が打ち付けられる。
「別に送ってやんなくてもいんだぞ?」
「…とってもお綺麗なおサンダルをお貸しいただいて、感謝感激雨アラレですわ」
「結構。んじゃ、クレープでいいか?」
「え?」
「ただ待ってるのもつまんないべ。クレープ、食いたかったんでないの?さっき見てたろ」
こういうところがずるいと、いつも思う。
飴と鞭を使い分けるこの男の前だと、さながら自分が飼いならされた猛獣になったかのような気分になってしま
う。まんまとのせられてしまう。
「オレンジリキュールで炎ボワッ!てやつある?」
「塩バターキャラメルもあるからそっちもな。甘さ控えめにしといてやるよ。あ、あと元木の姉ちゃんに俺が元木
引き受けたこと伝えとくわ。佐々木健介だっけ?もいるみたいだしな。タツと岩崎も呼んで俺ん家で飲むべ。携
帯持ってるか?」
「あ、うん。ヨシのアドレスなら分かるから連絡しとくわ。てか、佐々木健介でないからね?迫田さんって名前だか
らね?」
パーティー用のバッグに入っている真新しい携帯よりも、佐々木健介の青筋が浮いた顔を思い出し、慌てる。
しかし、返ってくるのは格好と雰囲気に似つかわしくない悪そうな笑顔。
「あのね、俺がお前みたいな間抜けなマネすると思う?」
唸るこちらにまた馬鹿にした笑い声を浴びせ、救急箱を片手にドアをあける友達。
「あ、ノブちん!」
あまりにもあっさりさっぱりその場を去ろうとするので、思わず大きな声を出してしまう。
「あ?」
お世辞にもお行儀がいいとは言えない返事。
扉が開いているのに、誰かに見られでもしたらどうするのだろう。
自分とは関係ないのに、どきどきしてしまう。
「あの、ありがとうね?」
気心知れた間柄で、素直に礼を言うのは、気恥ずかしい。
言われる方もそうなのだろうか。
そのまま手だけヒラヒラさせて出て行ってしまった。
ノブちんが去った後には、一人だけの空間。
僅かに流れるクラッシック。
白い シーツの塊は、こちらに迫ってくるように積みあがっている。
自分の身長ほどもあるその塊に、嫌なことを思い出してしまう。
頭の中で警鐘が鳴り響いているのに、止めることができない。
頭痛と軽い吐き気。
ワインもシャンパンも一杯ずつだった。
飲みなれていないからだろうか、それとも。
くるぶしに触れた、シップを貼ってくれたノブちんの手は大きかった。温かかった。
あの人の手とは大違いだった。
思い出すたびに痛くなる、胸。
吐き気が増した。
白い壁。
異様に冷たくて、ぶにゅっとした手。
うつろな目に、がさがさの肌。
紫の唇が、何かを言うように動く。
目をつぶっても、繰り返し流れる映像。
流れ落ちてくる汗をぬぐうこともなく、息を整える。
このくらいの広さなら、大丈夫、と。
もうすぐノブちんも帰ってくる、と。
必死で心を落ち着けていく。
どのくらいそうしていただろうか。
防音用のパッキンがこすれる音が聞こえ、顔を上げると、いい香りのするワゴンの後に、ノブちんの姿。
流石に堂に入っている。
ワゴンの上にはコンロとフライパン。
どうやらノブちん自らクレープを振舞ってくれるようだ。
オレンジリキュールをボワッ!とやってくれるのだろう。
暇と言っていたのは、あながち嘘でもないのかもしれない。
わお、と歓声をあげようとしたその時。
突然。本当に、突然だった。
開いた扉の向こうから、何かガラスのようなものが割れる音が聞こえた。
小さいけれど、気のせいではない。
その音に続くように、女性の悲鳴。
今度ははっきりと耳に届く大きさ。
甲高い、耳障りな音。
ただ事ではない雰囲気に、さっと部屋を後にするノブちん。
「ちょっと待ってろ」
捨て台詞のように聞こえた声に、誰も見ていないのに思い切り頷いた。
背中に溜まっていた汗がつつっと降りていく。
少しだけ開いたままの扉の向こうからは、先ほどまでの落ち着いた雰囲気は感じられない。
バタバタと、スタッフと思われる人達の走る音や怒号がすぐそばから聞こえる。
その間にも、悲鳴の数は多くなっていく。
だけどこちらからは何も見えない。
扉の向こうは何が起こっているのか、座っている位置から確認することは出来ない。
呆然としたまま、椅子にただじっと座るだけ。
映画でも見ているように、扉の方を見るだけ。
ひっきりなしに背中を流れる冷たい汗を感じながら。


第一章「帰国」、これにて終了です。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
ではまた、第二章で…。
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