

ボーン、ボーン、と、柱時計が時刻を知らせる。もう8時。
15分くらい前、学生達の演奏会もひと段落したところで、カウフマンはホテルへと帰って行った。
急遽代理として来た自分にとても感謝して。
通訳といっても、挨拶程度の会話しか訳していないのに。
ボン出身にしては、やけに巻き舌の発音だった。音楽家だからだろうか。
バイエルン地方にいたこちらとしては聞きやすいドイツ語。
サンタクロースのいでたちで巻き舌なものだから、ビールジョッキを割ったらさぞかし似合っただろう。
パーティーはまだまだ盛り上がっている。
中庭でデザートでももらってこようかと思ったとき、スッとシャンパングラスが差し出された。
空になったグラスを預け、気泡が綺麗に出ているシャンパングラスを受け取り、斜め後ろにいる人物にちらりと
目をやる。
「誰かと思った」
声は聞きなれているはずなのに、そばにいるのはどこかの誰か。
先ほどからこちらに視線を送っていた誰か。
シャンパンを一口含む。
さっきまで飲んでいたのはボルドー。肉料理に合わせて少し重めの赤を選んでいた。
唇に当たる気泡が痛い。
基本的にビール以外の炭酸は苦手だが、それも少し我慢さえすれば、重たくなった胃に爽やかさをくれる。
「それはねえ、こっちの台詞ですよ?何?眼鏡とか。目、悪かったの?」
「眼鏡かけると25くらいに見てもらえんの。流石に未成年じゃなめられるから、伊達でかけてる」
周りの人間には聞こえない大きさでささやくように喋られると、なんとなく居心地が悪い。
「こんなとこで油売っていていいんですか、オーナー?お忙しいんでしょう?」
向こうの顔は見ずに、中庭に視線を固定したまま。ことさら丁寧に言葉を選ぶ。
「正確には店長なんだけどね。フロアサービスは基本的に俺の仕事でないから。今夜はこの1件だけだし、出番
は基本、お出迎えとお見送りくらいだけ」
こちらの軽い嫌味にもどこ吹く風。
「そうですか。したら、こんな田舎モノの小娘でなくて、演奏された将来有望なアーティストの方々にご挨拶してく
ればいんでないですかね?」
客単7千円どころではない。
”hirota”で料理とワインをそれなりに楽しもうと思ったら、1万円は軽く超えてしまうだろう。
そんなところで、店長を名乗っている、同い年の友達。
ヨシの気持ちが今更分かるような気がしてしまう。
ふふっと空気を出す音。
「いや、元木の感想が聞きたくてさ。立食であんなに食べてるやつ初めてみたから」
笑いをかみ殺したような声だった。
食事は間違いなくおいしかった。
特にレバーパテのカナッペは秀逸だった。
レバーの甘みとコクを存分に引き出した絶妙な塩加減。
何枚も食べた。
サーモンのマリネにコンフィ、ホウレンソウの冷製ポタージュや、ブロッコリーのキッシュ、ホタテのバルサミコソー
スなども絶品。
口直しの、洋ナシのソルベも良かったし、チーズも各種満足のいく取り揃えだった。
鴨のローストに、フォアグラのテリーヌ、オマール海老のグリエは初体験で、驚きの連続。
石狩牛フィレのステーキなど、300グラム以上手を出しただろう。
レア、ミディアム、ウェルダンとそれぞれ用意されていたのにも感動した。
デザートはまだ食べていない。
元々甘いものが得意ではない。いつもは胃に余裕があっても、躊躇してしまう。
それでも中庭で楽しそうに作られているクレープには興味をそそられた。
きっとケーキなどもあるのだろう。
女性の歓声が時々聞こえる。
「大変おいしくいただきましたよ?何しろ”hirota”につられて今日来たわけだし。そりゃあもう、これでもかってえくら
い堪能させていただきましたわ」
「それはそれは。気に入っていただけたようで」
小ばかにしたような物言いに、カチンとくる。
腹いせに文句の1つでも言ってやろうと思い、振り向きざま。
グキっと、盛大に左くるぶしから下が折れ曲がる。
挫いてしまった。
高めのヒール。
慣れないヒール。
ピンヒール。
スニーカーのようにくるっと足を回すことが出来なかった。
上半身だけその人を振り向いたまま、痛みでしばらく動けなくなってしまう。
くるぶしから下は、折れ曲がったまま。
目の前の人は、もう、ほとんど爆笑しているような表情。
肩も唇も、小刻みに震えている。
「…手当てを。こちらへ」
と、体を支えて連れ出してくれる。
そこは、流石に責任者といった感じではある。
ただ、間違いなく後で思い切りネタにされるだろう。
酒井信人とは、そういう人物なのだから。

