hirota・3

ボーン、ボーン、と、柱時計が時刻を知らせる。もう8時。

15分くらい前、学生達の演奏会もひと段落したところで、カウフマンはホテルへと帰って行った。

急遽代理として来た自分にとても感謝して。

通訳といっても、挨拶程度の会話しか訳していないのに。

ボン出身にしては、やけに巻き舌の発音だった。音楽家だからだろうか。

バイエルン地方にいたこちらとしては聞きやすいドイツ語。

サンタクロースのいでたちで巻き舌なものだから、ビールジョッキを割ったらさぞかし似合っただろう。

 

パーティーはまだまだ盛り上がっている。

中庭でデザートでももらってこようかと思ったとき、スッとシャンパングラスが差し出された。

空になったグラスを預け、気泡が綺麗に出ているシャンパングラスを受け取り、斜め後ろにいる人物にちらり

目をやる。

 

「誰かと思った」

声は聞きなれているはずなのに、そばにいるのはどこかの誰か。

先ほどからこちらに視線を送っていた誰か。

 

シャンパンを一口含む。

さっきまで飲んでいたのはボルドー。肉料理に合わせて少し重めの赤を選んでいた。

唇に当たる気泡が痛い。

基本的にビール以外の炭酸は苦手だが、それも少し我慢さえすれば、重たくなった胃に爽やかさをくれる。

「それはねえ、こっちの台詞ですよ?何?眼鏡とか。目、悪かったの?」

「眼鏡かけると25くらいに見てもらえんの。流石に未成年じゃなめられるから、伊達でかけてる」

周りの人間には聞こえない大きさでささやくように喋られると、なんとなく居心地が悪い。

「こんなとこで油売っていていいんですか、オーナー?お忙しいんでしょう?」

向こうの顔は見ずに、中庭に視線を固定したまま。ことさら丁寧に言葉を選ぶ。

「正確には店長なんだけどね。フロアサービスは基本的に俺の仕事でないから。今夜はこの1件だけだし、出番

は基本、お出迎えとお見送りくらいだけ

こちらの軽い嫌味にもどこ吹く風。

「そうですか。したら、こんな田舎モノの小娘でなくて、演奏された将来有望なアーティストの方々にご挨拶してく

ればいんでないですかね?」

 

客単7千円どころではない。

”hirota”で料理とワインをそれなりに楽しもうと思ったら、1万円は軽く超えてしまうだろう。

そんなところで、店長を名乗っている、同い年の友達。

ヨシの気持ちが今更分かるような気がしてしまう。

 

ふふっと空気を出す音。

「いや、元木の感想が聞きたくてさ。立食であんなに食べてるやつ初めてみたから」

笑いをかみ殺したような声だった。

 

食事は間違いなくおいしかった。

特にレバーパテのカナッペは秀逸だった。

レバーの甘みとコクを存分に引き出した絶妙な塩加減。

何枚も食べた。

サーモンのマリネにコンフィ、ホウレンソウの冷製ポタージュや、ブロッコリーのキッシュ、ホタテのバルサミコソー

なども絶品。

口直しの、洋ナシのソルベも良かったし、チーズも各種満足のいく取り揃えだった。

鴨のローストに、フォアグラのテリーヌ、オマール海老のグリエは初体験で、驚きの連続。

石狩牛フィレのステーキなど、300グラム以上手を出しただろう。

レア、ミディアム、ウェルダンとそれぞれ用意されていたのにも感動した。

 

デザートはまだ食べていない。

元々甘いものが得意ではない。いつもは胃に余裕があっても、躊躇してしまう。

それでも中庭で楽しそうに作られているクレープには興味をそそられた。

きっとケーキなどもあるのだろう。

女性の歓声が時々聞こえる。

 

「大変おいしくいただきましたよ?何しろ”hirota”につられて今日来たわけだし。そりゃあもう、これでもかってえくら

い堪能させていただきましたわ」

「それはそれは。気に入っていただけたようで」

小ばかにしたような物言いに、カチンとくる。

 

腹いせに文句の1つでも言ってやろうと思い、振り向きざま。

 

グキっと、盛大に左くるぶしから下が折れ曲がる。

挫いてしまった。

高めのヒール。

慣れないヒール。

ピンヒール。

スニーカーのようにくるっと足を回すことが出来なかった。

上半身だけその人を振り向いたまま、痛みでしばらく動けなくなってしまう。

くるぶしから下は、折れ曲がったまま。

 

目の前の人は、もう、ほとんど爆笑しているような表情。

肩も唇も、小刻みに震えている。

 

「…手当てを。こちらへ」

と、体を支えて連れ出してくれる。

そこは、流石に責任者といった感じではある。

 

ただ、間違いなく後で思い切りネタにされるだろう。

酒井信人とは、そういう人物なのだから。

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