2年生-秋-8

「すごい。私やっちょと話してるね」

会話が成り立っているわけではなかったが、それでも私にとっては一大事だった。

「苦手だったんだ、やっちょのこと。ずっとさ。いや、嫌いとかじゃなくてさ。じゃなきゃあんなに一緒にはいなかったし。なんかさ、話しかけづらかったんだ。中学に入ったら、余計苦手になっちゃってた。態度、悪くてごめんね」

独り言のように、私は、ぽつり、ぽつりと、話していた。

「別に」

短い、言葉。いいのか、悪いのか。何のことに対してかも、ともすると分からない。

ぼててっ。

くるみの実が、2つ続けて落ちた。


「俺のことは、いいけど」

純一、どうすんの。

随分と遅れて飛び出した言葉の続き。

純ちゃんの名前が出されて、体が少し固まる。

 

やっちょには、私が視聴覚室の前で踏みとどまっていた理由が、分かっているようだった。

何て言ったらいいのか分からず、口をつぐむ。

 

「…何で純一が三役にお前を選んだか考えたことあるか」

聞かれていることの意味がよく分からなかった。

この人は、何かにつけて唐突だ。

 

「加奈が言ってた。古い体制をぶち壊すための起爆剤としてじゃないの?」

自分でも、納得のいっていない回答だった。

「本当にそう思ってんの」

「違うの?」

そう言ってやっちょの方を見る。うつむき、ポケットに手を突っ込んでいる格好のまま。

別に、と、また。今度はどういう意味なのか。

「何それ」

たまらず聞くと、

「それは純一に聞けば」

それより寒くねえの。

すっきりしない上に、話も逸らされてしまう。

 

視線をくるみの木に戻す。昔はタバコの煙だとはしゃいでいた、白い息。確かに、寒かった。

 

「…自分で連れてきたくせに」

「…じゃあこれ着てろ」

 

ジジジと、ジッパーの音が、滑らかに響く。

 

ぼさっと、頭の上に、さっきまでやっちょが着ていたパーカが落ちてきた。

 

森の匂いがした。変わらない、やっちょの匂い。懐かしい、匂い。

 

パーカを頭からはがして右を見ると、今度はやっちょがロンT1枚になっていた。

「あ、ありがと。でもやっちょが寒いんじゃ…」

「連れてきたの、俺なんだろ」

また、口の端が上がっていた。

 

ぶかぶかのパーカ。袖を折らないと、手が出ない。裾は膝近くまで来ていた。

 

ああ、男の子だ、と思った。

 

私とこの人は全然違う生き物なんだと。今さらながら。

 

やっちょのことが苦手だったのは、

自分が一番立ちたかった場所に、彼がいたから。

嫉妬という感情を持っていたことに、気づく。

 

思い出す。叫んだ純ちゃんに反応して、即座に走り出したやっちょ。

 

自分が、走り出したかった。守ってもらうのではなく、守る側に、いきたかった。

そして、純ちゃんに頼ってもらえる存在になりたかった。

 

「そういうことだったんだ。」

「…何」

「私はやっちょになりたかったんだ。だから苦手だったんだよ」

「は?」

「私はやっちょみたいに純ちゃんの隣にいたかったの」

「…あ、そう」

「やっちょが立っている場所で、物をみてみたかったんだな。そんな男の子に、なりたかったんだ」

 

実がまた1つ落ちる。ガササ。枯葉の上へダイブしたことで、乾いた音をたてた。

 

「なれないけど」

当たり前のことを、至極真面目に、やっちょは言う。

 

「…知ってるよ、そんなことは」

だから悩んでいるんじゃないかと。

 

別に。

また言われた。きっと、意味はないんだろう。次の言葉へ続くための接続詞のようなものかもしれない。

「男だろうが女だろうが、四宮は四宮でいいだろ」

 

でも、世界には。男と、女しかいないのに。

「女の子じゃだめなんだよ。あの場所は。男の子になりきれなかった、宙ぶらりんな私がいていい場所じゃないんだ」

 

「…言っとくけど、お前を男だと思ってつるんでた奴なんて、いないぞ」

 

「…は?なにそれ」

 

「考えてみろ。純一は男にはすぐ殴りかかってたけどお前には何もしなかったろ」

 

ぐるぐると、辿った記憶の中、純ちゃんが殴っていたのは、確かにいつも私以外の男の子。

 

 

「浩明はもろだったな。よくお前に女の嗜みがどうのこうの言ってたし。

お前が男だったらそんなこと言うか」

 

未だにそれは言われ続けている。

 

「それでもつるんでたのは男の四宮だからじゃなくて、女だけど四宮だったからって考え方の方が、しっくりくる」

まあ。俺がだけど。

 

そんなことを、考える人だったろうか。ぼやけてよく思い出せない、昔のやっちょ。


「今のお前を純一は三役にした。今分かる全てだ。それ以外、あいつの気持ちはあいつじゃなきゃ分からない。お前の気持ちもお前しか分からない。

言ってみなけりゃ、聞いてみなけりゃ分からない。案外、簡単だ」

こんなに沢山、しかも順序だてて話すやっちょは見たことがなかった。

 

やる気はなさそうだけれど。

パーカから漂う森の香りが、私を包む。この人を、初めてちゃんと見た気がした。

 

「…私は、中途半端なままだけど」

「皆ガキなんだからそうだろ」

「だからそれは…」言いかけた言葉はチラリと向けられた視線に吸い込まれていく。

「同じことだと思うけど」

「虫が、良すぎないかな」

だから躊躇してしまう。

「もっと、あいつみたいに単純に考えてみれば」

 

思い浮かぶのは、ただ一つのこと。

 

「しがみつきたいのは、過去か?」

今、四宮はどうしたい。

ゆっくりと、心にしみこんで来る言葉。

 

いいか、おれたちは、ずっと、なかまだ。わすれるな。

そう言った、幼い純ちゃん。頷いた、私たち。

子ども同士の。他愛ない、おままごとのようなものでも。忘れるなんて出来ない、約束。

形を変えて、今もそこにあるなら。

 

私が決して見ようとしなかった亀裂は、今、どうなっているのだろうか。


「私、怖がりだったね」

逃げながら、皆から話しかけてもらうのを密かに期待していた。

自分から前に進まなければ、見えない世界だったのに


「なら、行くぞ」

気づくとやっちょは立ち上がっていた。

 

「え?」

「やることは一つだろ。逃げるな」

逃げるな。

 

正直怖いという気持ちはまだ残っている。

でもここで動かなかったら、きっと私は一生後悔する。

やっちょの言うとおりだ。もう逃げたくはない。

もしもだめだったとしても、しょうがない。

これが私の「四宮杏」としての本当の意味での第一歩なのだから。

筋を、通さなければ。

 

「分かった」

そして、私は視聴覚室に向かって歩き出す。

自分の意志で、歩き出すのだ。


「あ~さむ」

これでもかとポッケに手を突っ込みながら歩く隣の人。

「あ、ごめん返す」

「着とけ。鼻水凍ってるし」

「え、嘘!?」

それは、かなり恥ずかしい。顔をばっと両手で隠す。

「嘘」

「…」


夕日に染まる、グラウンド。明日もきっと、晴れる。

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