キャンプファイヤーから離れると、途端に刺すような冷たい空気が私を包んだ。
息を吸い込む。
鼻や喉が冷えて、痛い。ホッカイロをまた、ぎゅっと握り締めた。
そうだった。
やっちょがいなければ私は今の場所に立てなかった。
真っ先にお礼を言うべき相手は彼だ。
なんで無理するかな。
気を失う前に、聞こえた言葉。やっちょは、左利き。左利きなのだ。
睨むように、見つめられた、朝の視聴覚室。
もし、私の考えが当たっているのなら。
あの日、自転車を無言でこいでくれた背中を思い出す。
私は、馬鹿だ。いつだって、やっちょは私を助けてくれたのに。守ってくれたのに。その優しさに気づかずに。
苦手だったなんて、思ってしまった。言ってしまった。
伝えられないままのお礼。
今度こそきちんとしたい。
息が、切れる。背後から、純ちゃんの歌声。
ブルーハーツの「夢」に、曲が変わっていた。
パーカを脱ぎながら走る。寒いけど、これを着ていてはいけない。守られたままでは。
ガラッと、勢いよく視聴覚室の扉を開けた。
電気が消されて、キャンプファイヤーの光が揺れている室内の、端っこ。
パネルヒーターの前に座り、窓枠に肘をついて外を見ていた彼の、顔だけがこちらを向いた。
「何してんの」声だけ聞こえ、表情は見えない。
「うん。あの、今大丈夫?」
「とりあえず寒いからドア閉めてくんない」
「あ、ごめん」今度は、静かに。
「で、何」
乱れていた息を、整える。
「…ちゃんとお礼、言ってなかったと思って。本当に、ありがとう。
やっちょがけしかけてくれなかったら、私、今までのままだった。パーカと、ホッカイロもありがとう」
返事はないけれど、きっと、聞いていてくれているだろうと。話し続けた。
「それと…あの時も。あの時、自転車で家まで運んでくれてありがとう。
ずっとお礼が言いたかったんだけど、言いそびれてて」
別に。
その返しに、思わず笑顔になる。
「何したわけでもないけど」
そう言いながら、きっと、何かあったら動いてくれるのだろう、この人は、これからも。
「うんでも、私は嬉しかったから。受け取っといてよ」
じゃあ、ありがたく。
ふいっと、顔の向きを窓に戻す。
「もうすぐ終わりそうだな」
窓の向こうでは、純ちゃんのリサイタル。
「あ、ほんとだ。戻らないとね。私、コート取りに行くから、パーカ返すね」
パーカを手渡そうとやっちょに近づいた時。
教室が暗いせいで、床においてあった資料の山に気づかず、けつまずいてしまった。
「ねえ、加奈ちゃん、それって確信犯?」
私が走り去った直後。加奈の持つ紙を見ながら、ひろくんが言う。
「そういう疑問を持つってことは、やっぱり、書いたのは桜井君だったみたいね」
加奈の手の中には、「具合が悪いので休ませてください 四宮」の文字。
「うわあ、すごいねぇっ。いつばれたの?」
「ホームルームのチャイムがなった途端飛び込んできた割に、2組まで行ったって言ってたでしょう?
なんだか出来すぎじゃない?
送っていったのは、きっと山野君でしょうけどね。だまされやすい杏の性格を利用して、これ以上の混乱を避けたってところかしら」
「加奈ちゃん、探偵みたいだね」
「うるさいわね」
「じゃあ、なんでやっちょが書いたみたいに、キョウちゃんに言ったの?」
「知られたくないんじゃないの?杏に。だからよ」
「うわ、バレバレ。ホントかっこいい~」
「茶化すんだったら、別にいいのよ。ばらしても」
「あわあわ、ごめんよぅ。許してください~」
「それにしても。…遅いわね」
「うん。遅いねえ」
2人とも、ニヤリと。そのまま会話は途切れた。
「いてえ」
ほんわりと、炎の色が見え隠れする視聴覚室。
膝で踏んでしまった、やっちょの足。
背中に回った両腕が、私の体を、支えていた。
感じる、森の匂い。
転びかけた私は、やっちょの足の上に、抱きかかえられながら、膝立ちで着地していた。
「ご、ごめん、ありがとう」
立ち上がる私を無言で支える腕。
思い出したのは、森の匂い。驚くほど優しかった、手と腕。
確信へと、変わっていく、夢の中の映像。
誰かに抱きかかえられている私。その手も、腕も、やっちょのものに、置き換わっていった。
一気に、リアルになる、夢。
体を支える腕に、恥ずかしくなり。
離してもらおうと顔を上げると、息がかかるほど、近くにいたやっちょ。
ぼさぼさの髪の毛の間から覗いた、その瞳に、体が固まる。
優しい、優しい、 初めてまともに見てしまった、やっちょの表情。
よしてめえら!最後はやっぱりリンダリンダだー!
純ちゃんの大きな声に。
「は、早く行かないとね!これ、ありがと!」パーカを押し付けるように渡し、ドアに向かって早歩きする。
「色々本当にありがとう!明日からもよろしく!」
おい。というやっちょの呼びかけも、その後のため息も。
聞かずに私は視聴覚室を飛び出した。
一気に階段を上がり、自分の教室にたどりつく。
扉を背にしてへなへなと座り込んでしまった。床の冷たさなんて、分からない。
顔が、熱い。額に手を当てると、うっすらと、汗。走ったせいだけでは、決してないだろう。
不意に香る、自分の腕に、かすかに移っていた、森の匂い。
ぎゅっと心臓をつかまれた感覚に陥る。
思わず両手で押さえて。はっとした。
キュウってココが痛くなる感じとかしたことないの?
いつだったか胸に両手を当て、言っていたひろくんの映像が。繰り返し、繰り返し、何度も頭に流れる。
全てを、理解した。
やっちょになりたかったと。言った私。
ああ、そうか…私はやっぱり馬鹿だ。
本当は、そういうことだったんだ―――――――――――――
2年生-秋-オールアップです。お読みいただき、ありがとうございました。
小話を挟んで、3年生-初春-に続きますが、一応ここで区切りとさせていただきます。
2章からはだらだらと続きますので、ご注意ください。
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