足下は、凍った土。アスファルトまではいかないけれど、歩けば乾いた音を出す。
時々凍った草のザクザクという感覚が足裏に伝わり、くすぐったい。
周りには、所々、雪が。
北海道に比べると、夏はすぐそこなのではないかと思う程ぽかぽかと暖かい宮城も、奥羽山脈に属する蔵王連峰
の標高1700メートル辺りまでくれば、まだ春すらも遠い。
氷に積もる雪。水面も、半分凍っている。
太陽の光によって色が変化する「五色沼」。白く染まる息の向こうには、エメラルドグリーンの水面。
大自然のど真ん中にありながら、強い酸性の湖に生き物は生息できない。
その矛盾に、人は陶酔するのだろうか。
異様な美しさに、圧倒されていた。
夕べ、ほとんど眠れなかったからか、寒さには慣れているはずなのに、体が思ったよりも震える。
しばらくすると、馬場さん達が眠りについたのが分かった。
私達も布団に入ったが、皆の寝息と、時計の針の音が耳について寝付けない。
どきどきして、眠れない。
テレビのすぐそばにあるデジタル時計には、「02:16」の表示。「:」の部分が点滅しているのも、妙に気になる。
デジタル時計があるのに、なぜアナログまで用意するのだろう。
余計なことがどんどん気になってきて、逆に目が冴えてきてしまう。
デジタル時計の表示の「02:31」を確認した時には、もう完全に寝付けない状態になってしまっていた。
寝付けないのに静かな部屋にいてもつまらないし、時間が経つのが異様に遅い気がするものだ。
皆を起こさないよう気をつけながら、部屋を出た。
畳の廊下には、小さくジャズが流れていた。
話し声で聞こえなくなる程度の、かすかなメロディ。
しばらく進むと、非常扉。
ピクトグラムがぼんやり光る。見慣れた緑色の明かり。
白い出口へ駆け出している緑の人型。顔がない、のっぺらぼう。
逃げているはずなのに、希望に満ち溢れている。そんなものにも、苛立ちを覚えてしまう。
いいね、あなたはどこに行けばいいか分かっていて、と。
海の音を聞きたくて、ドアノブに手をかけた。
キョウちゃん?
そう私を呼ぶ人物は、1人しかいない。
声の方を振り向くと、Tシャツの袖を肩まで捲り上げ、その横にバスタオルを引っ掛けながらこちらに来るのは、
やっぱりひろくんだった。
「あれ、皆は?」
「聞いてよぅ!皆さっさと寝ちゃうんだよ?やっちょが重かったとかで、ホントにすぐイビキかいてさっ!
1人じゃつまんないから、お風呂入ってきちゃった~。加奈ちゃんももう寝てるの?」
「うん。夜更かしは将来の自分を考えてしない主義なんだってさ」
「あはは、加奈ちゃんらしいね。外行こうとしてたの?僕も僕もっ」
勢い良く非常扉を開けると、冷たい風が吹き込んでくる。
「わぁやっぱりまだ寒いね~!キョウちゃん風邪引かないように気をつけてね?」
言ったひろくんの髪から、雫が一滴垂れた。
慌てて肩のバスタオルをひろくんの頭に乗せる。
少し背が伸びたといっても、ほとんど目線の変わらないひろくんの頭に。
「ひろくんの方が湯冷めしちゃうよ?」
タオルの間から、糸目になったひろくんの笑顔。
「あ~もぅ、キョウちゃんったら、ホント、かわいいんだからっ」
ひろくんはこういう恥ずかしい台詞を臆面もなく言ってのける。
そのたびに対処に困る私の身にもなってほしいものだ。
妙に気恥ずかしくなり、海に目をやる。
真っ暗な海。所々に月光を反射しているが、あとはもう、ただただ黒い、辺りの景色。
独特な、海の匂い。
いつもの変なはぐらかしはなく、はっきりと言った加奈。
自分で答えを見つけられる、と。
いくら泣きついてもいいと。
励まされたのだ。
でも、同時に突き放されたような気分にもなってしまった。
私達は、いつまでも一緒にいられるわけじゃ、ない。
どうしてこんな気持ちになるのだろう。
やっちょだけじゃない。加奈に対しても。
今目の前にいるひろくんに対しても、優しい渡辺君に対しても。
…純ちゃんに対しても。
変わるかもしれない今の状態。まだ見えていないその先を、もう怖がってしまっている。
私は一体、何がしたいのだろう。
広がる暗闇。見えない未来。
「おーい、キョウちゃん?」
隣にひろくんがいることを一瞬忘れてしまっていた。
「あ、ごめん。考え事してた」
「もうっ!僕のこと忘れないでよぅ!」
「ごめんごめん」
”ぷんすか”という表現がぴったりのひろくんの表情。
謝りながらも思わず笑ってしまう。
「ひどいキョウちゃん!僕の顔で笑わないでよぅ!」
よりぷんすかするひろくん。でも、必ず最後には一緒に笑ってくれるのを、知っている。
少し細長い目が、糸みたいになくなっていくのを、知っている。
「明日はいよいよお釜だね?僕は今日の平泉がメインだったけど、キョウちゃんはお釜だもんねっ。楽しみだね~」
その目がない表情で、私に話しかけてくれるのを、ずっと前から、私は知っているのだ。
「うん!ちゃんと晴れるといいな。何色なんだろう?」
「う~ん、やっぱりエメラルドグリーンがいいよねっ。お釜!って感じだよね!」
この人に、何度となく救ってもらった。
ずっと、橋渡しをしてくれていた。
優しく、泣き虫。でも、言いたいことは純ちゃんに対してもきっちり言う。
私の知っている、ひろくん。
加奈の言いたかったこと。
変わらないものと、変わっていくもの。
足元と、頭上。
後ろと、前。
「おいキョウ!こっちに来い!ここで撮るぞ!最強のポーズを考えろ!」
既にドカベンの岩鬼正美ばりにハッパを口に銜えた純ちゃんが、ポースを取りながら私を呼んだ。
エメラルドグリーンの湖をバックに、班での写真撮影の時間だった。
純ちゃんを中心に、渡辺君、ひろくん、加奈と続き、少し離れた位置に、背中を丸めたやっちょ。
加奈の隣に入ると、誰かに優しく背中を叩かれる。
甘い香りが、鼻をくすぐった。
山崎先生の「はい、わらび~」の掛け声に、一斉にブーイングが起こる。
きっと、写真はぶれてしまっているだろう。
でも、それでいいと思った。
今の私達が綺麗な過去になるのを、見たいとは思わなかった。
↓クリックいただけるとありがたいです↓