3年生-春-9

足下は、凍った土。アスファルトまではいかないけれど、歩けば乾いた音を出す。

時々凍った草のザクザクという感覚が足裏に伝わり、くすぐったい。

周りには、所々、雪が。

北海道に比べると、夏はすぐそこなのではないかと思う程ぽかぽかと暖かい宮城も、奥羽山脈に属する蔵王連峰

の標高1700メートル辺りまでくれば、まだ春すらも遠い。

氷に積もる雪。水面も、半分凍っている。

太陽の光によって色が変化する「五色沼」。白く染まる息の向こうには、エメラルドグリーンの水面。

大自然のど真ん中にありながら、強い酸性の湖に生き物は生息できない。

その矛盾に、人は陶酔するのだろうか。

異様な美しさに、圧倒されていた。

 

夕べ、ほとんど眠れなかったからか、寒さには慣れているはずなのに、体が思ったよりも震える。

 

しばらくすると、馬場さん達が眠りについたのが分かった。

私達も布団に入ったが、皆の寝息と、時計の針の音が耳について寝付けない。

どきどきして、眠れない。

テレビのすぐそばにあるデジタル時計には、「02:16」の表示。「:」の部分が点滅しているのも、妙に気になる。

デジタル時計があるのに、なぜアナログまで用意するのだろう。

余計なことがどんどん気になってきて、逆に目が冴えてきてしまう。

デジタル時計の表示の「02:31」を確認した時には、もう完全に寝付けない状態になってしまっていた。

寝付けないのに静かな部屋にいてもつまらないし、時間が経つのが異様に遅い気がするものだ。

皆を起こさないよう気をつけながら、部屋を出た。

 

畳の廊下には、小さくジャズが流れていた。

話し声で聞こえなくなる程度の、かすかなメロディ。

しばらく進むと、非常扉。

ピクトグラムがぼんやり光る。見慣れた緑色の明かり。

白い出口へ駆け出している緑の人型。顔がない、のっぺらぼう。

逃げているはずなのに、希望に満ち溢れている。そんなものにも、苛立ちを覚えてしまう。

いいね、あなたはどこに行けばいいか分かっていて、と。

 

海の音を聞きたくて、ドアノブに手をかけた。

 

キョウちゃん?

 

そう私を呼ぶ人物は、1人しかいない。

声の方を振り向くと、Tシャツの袖を肩まで捲り上げ、その横にバスタオルを引っ掛けながらこちらに来るのは、

やっぱりひろくんだった。

「あれ、皆は?」

「聞いてよぅ!皆さっさと寝ちゃうんだよ?やっちょが重かったとかで、ホントにすぐイビキかいてさっ!

1人じゃつまんないから、お風呂入ってきちゃった~。加奈ちゃんももう寝てるの?」

「うん。夜更かしは将来の自分を考えてしない主義なんだってさ」

「あはは、加奈ちゃんらしいね。外行こうとしてたの?僕も僕もっ」

勢い良く非常扉を開けると、冷たい風が吹き込んでくる。

「わぁやっぱりまだ寒いね~!キョウちゃん風邪引かないように気をつけてね?」

言ったひろくんの髪から、雫が一滴垂れた。

慌てて肩のバスタオルをひろくんの頭に乗せる。

少し背が伸びたといっても、ほとんど目線の変わらないひろくんの頭に。

「ひろくんの方が湯冷めしちゃうよ?」

タオルの間から、糸目になったひろくんの笑顔。

「あ~もぅ、キョウちゃんったら、ホント、かわいいんだからっ」

ひろくんはこういう恥ずかしい台詞を臆面もなく言ってのける。

そのたびに対処に困る私の身にもなってほしいものだ。

妙に気恥ずかしくなり、海に目をやる。

真っ暗な海。所々に月光を反射しているが、あとはもう、ただただ黒い、辺りの景色。

独特な、海の匂い。

 

いつもの変なはぐらかしはなく、はっきりと言った加奈。

自分で答えを見つけられる、と。

いくら泣きついてもいいと。

励まされたのだ

でも、同時に突き放されたような気分にもなってしまった。

私達は、いつまでも一緒にいられるわけじゃ、ない。

 

どうしてこんな気持ちになるのだろう。

やっちょだけじゃない。加奈に対しても。

今目の前にいるひろくんに対しても、優しい渡辺君に対しても。

…純ちゃんに対しても。

変わるかもしれない今の状態。まだ見えていないその先を、もう怖がってしまっている。

私は一体、何がしたいのだろう。

広がる暗闇。見えない未来。

 

「おーい、キョウちゃん?」

隣にひろくんがいることを一瞬忘れてしまっていた。

「あ、ごめん。考え事してた」

「もうっ!僕のこと忘れないでよぅ!」

「ごめんごめん」

”ぷんすか”という表現がぴったりのひろくんの表情。

謝りながらも思わず笑ってしまう。

「ひどいキョウちゃん!僕の顔で笑わないでよぅ!」

よりぷんすかするひろくん。でも、必ず最後には一緒に笑ってくれるのを、知っている。

少し細長い目が、糸みたいになくなっていくのを、知っている。

 

「明日はいよいよお釜だね?僕は今日の平泉がメインだったけど、キョウちゃんはお釜だもんねっ。楽しみだね~」

その目がない表情で、私に話しかけてくれるのを、ずっと前から、私は知っているのだ。

「うん!ちゃんと晴れるといいな。何色なんだろう?」

「う~ん、やっぱりエメラルドグリーンがいいよねっ。お釜!って感じだよね!」

この人に、何度となく救ってもらった。

ずっと、橋渡しをしてくれていた。

優しく、泣き虫。でも、言いたいことは純ちゃんに対してもきっちり言う。

私の知っている、ひろくん。

 

加奈の言いたかったこと。

変わらないものと、変わっていくもの。

足元と、頭上。

後ろと、前。

 

「おいキョウ!こっちに来い!ここで撮るぞ!最強のポーズを考えろ!」

既にドカベンの岩鬼正美ばりにハッパを口に銜えた純ちゃんが、ポースを取りながら私を呼んだ。

エメラルドグリーンの湖をバックに、班での写真撮影の時間だった。

純ちゃんを中心に、渡辺君、ひろくん、加奈と続き、少し離れた位置に、背中を丸めたやっちょ。

加奈の隣に入ると、誰かに優しく背中を叩かれる。

甘い香りが、鼻をくすぐった。

 

山崎先生の「はい、わらび~」の掛け声に、一斉にブーイングが起こる。

きっと、写真はぶれてしまっているだろう。

 

でも、それでいいと思った。

今の私達が綺麗な過去になるのを、見たいとは思わなかった。

 

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