段々どんよりしてきた空に同調するように、エメラルドグリーンの水面に靄がかかり始めた。
撫でる様に、ゆらゆらと、湖面を覆っていく。
小学校の修学旅行で行った摩周湖に似ていると思った。
晴れた湖を見ると行き遅れてしまうと有名な、霧の摩周湖に。
「なんだなんだ、俺がいる間くらい晴れてろ!」隣で自信満々に空に文句をたれているのは、純ちゃん。
腕組みと口に銜えた葉っぱはそのままで。
腰をかけるのに丁度良さそうな石に右足をかけている。
左手を制服のポケットに突っ込み、右ひじは、石においているほうの膝の上。
遠くにあるお釜を覗き込むような姿勢だった。
「しょうがないよ、天気予報では雨だったんだもん。晴れたお釜が見られただけでもラッキーじゃん」
苦笑しながらそう言うと、じろっと睨まれて肩をすくめた。葉っぱがゆらゆら揺れている。
「俺はな、晴れ男なんだよ。晴れ男って自分で言ってるのに雨なんかふられたら格好つかないだろ」
「純ちゃん格好つけたいんだ?」
「当たり前だ。男は全員格好つけだぞ」
だから葉っぱを口に銜えているのだろうか。
格好つけの方向がすこぶる分かりやすい。
そしてその格好のつけ方が抜群に似合うのだ、この人は。
「まだ晴れてるな。よし、俺の晴れ男伝説に幕が下りないうちに帰るか」
「いやいや、まだ30分も見学時間残ってるから」
「山センなら繰り上げるだろ、草むらで吐いてたからな。何がわらびだ。ふざけるな」
結局、何度不満を言っても、山崎先生の合図は「はい、わらび」だった。
「えー、もうちょっとお釜見たかったのにな」
「なんだ、つまらなかったんじゃないのか」
事も無げにそう言われ、一瞬、意味が分からなかった。
「え?なんで?楽しんでるよ?」
「俺をなめるな、キョウ」
丸分かりなんだよ。
こちらに向けられた、大きな背中。
相変わらず、頼もしい背中。
肯定するわけにもいなかいし、かといって全否定することも出来ない。
どう答えていいかわからずに、丁度私の目線の高さにある純ちゃんの背中を見つめていると。
「キョウはあれだな。飯の時は好きなもんを1番最後に残しとくやつだったな」
背中から、声。こちらを見ずに話す純ちゃん。
「うん。それがどうかしたの?」
さっきの話題よりはずっとましだった。
「したら、今日から好きなもんを真っ先に食うやつになれ」
「…なんで?最後でいいじゃん、勿体ない」
「腹いっぱいになって食えなくなったらどうするんだ!」
いきなり背中がくるりと反転し、くわっと、大真面目な顔が目の前に現れた。
銜えていた葉っぱが地面へと、ひらひら落ちていく。
ドラマチックな展開に、笑いそうになるのを堪える。
「大丈夫だよ、私結構大食いだもん。加奈程じゃないけどさ」
「あのな馬鹿野郎、そういうことじゃない。一口目は何食っても旨いんだぞ?
1番好きな食いもんを一口目にしたら100倍くらい旨いだろうが」
確かに、ただでさえ美味しいものが、さらに美味しくなるんだったら、かなりお得かもしれない。
それを今まで逃していたのだとしたら、それこそ結構勿体ないのではないだろうか。
私の表情をじっと観察していた純ちゃんは、満足げな顔で、腕組をする。
「いいか、あと30分ある。楽しみにしてたんだろ?もっと食いつけ。後で後悔しても知らんからな」
再びこちらに向いた背中が、段々と小さくなっていく。
あぁ、本当に。
昨日から思っていた。
皆はずるい。
こういう時に限って、優しい。
渡辺君のモナリザも、加奈の甘い香りも、ひろくんのバスタオルも。
こちらに向けられた大きな背中も。
皆、温かい。
分かっていたのだ、最初から。
皆が優しいことくらい。
そんなにすぐ変わってしまう程薄い関係ではないことくらい。
それでも、つい甘えてしまっていた。
そう、ただ甘えていただけ。
やっちょという身近で大切な人を好きになってしまったという、自分の中に生まれた罪悪感とジレンマ。
ただ助けて欲しかった。
どうやったら自分が助かるかなんて、全く考えずに、その優しさに埋もれたかったのだ。
去っていこうとする背中に、大声で呼びかける。
「ねえ、純ちゃん!」
5メートル程離れた位置で止まる背中。
声が大きすぎたのか、周りにいた生徒達もちらほらとこちらに視線を向ける。
「あのさ、純ちゃんが言ってくれた、ずっと仲間って約束さ…ふがっ!」
いきなり純ちゃんが真っ赤な顔でダッシュしてきて、私の口を塞いだ。
「馬鹿野郎!!!大声で恥ずかしい台詞を言うな!!!」
純ちゃんの声も大概大きいのだが、そこは気にしないらしい。
そういえば、いつの頃からかは忘れたが、純ちゃんは恥ずかしい台詞を言うのも聞くのも苦手だった。
どうしても言わなければいけない時は、いつも顔が真っ赤になっていた。
去年の文化祭を思い出す。
パネルヒーターのカンカンという音に、純ちゃんの真っ赤な耳。
あの時の、言葉。
やっちょに笑われてすぐさま飛び掛っていたから、相当嫌だったのだろう。
それでも言ってくれた、あの言葉。
「仲間ってさ、離れても仲間?」
大きな手のひらを口からずらしてそう聞いてみた。純ちゃんにかろうじて聞こえる程の大きさで。
少し怪訝な顔をした純ちゃんは、改めてお釜を見直して、言った。
「俺はな、駒大岩見沢に行く」
駒大岩見沢。センバツの甲子園でベスト4までいったこともある野球の強豪校。
「部員は全員寮に入るし、毎日朝から晩まで野球漬けでそうそう会えなくなる」
駒大岩見沢がベスト4までいったとき、純ちゃんはテレビにかぶりついて
”俺はここにいくぞ!こうしえんにいくぞ!”と叫んでいた。10歳の時だ。
分かってはいたが、はっきりと自分達の道が分かれたことに、少し胸が痛む。
「それで、そうそう会えなくなって、辛くなって、終わりか?すぐ忘れるか?」
目線だけこちらによこして聞かれ、思い切り首を振る。
忘れられるはずなんかない。終わりに出来るはずがない。
あんなに頑張っても、私の中から純ちゃんがいなくなることなどなかったのに。
「だろ。余計な心配するな」
赤い顔をお釜の方へ向けたまま、ぶっきらぼうに言い放つ純ちゃん。
「俺は野球も、お前らも、全部あきらめない」
俺がずっとって言ったら、ずっとなんだ。
ものすごく恥ずかしいはずなのに、私の為に、言ってくれた。
霞が水面の半分を埋め尽くしても、その美しさに一片の翳りも見せない湖。
その湖を見つめる、大事な親友。
どちらも、とても尊大で、だからこそとても綺麗。
そっくりで、それでいて全く違うと思った。
全てを排除することで他を圧倒するこの湖と、圧倒的な存在感で全てを巻き込んでいく目の前の親友。
そして私は、この加藤純一という人に、この、絶対的な存在に、やっぱり、どうしても、どんな時でも憧れを抱かずにはいられないのだ。
もうすぐ見学終了の時間だと、山崎先生がふらふらしながら臭い息をばらまいていた。
加奈とひろくんが、バスの前で話している。
近づいていくと、加奈が苦笑し、ひろくんはにっこり笑う。
私と純ちゃんの「仲間」のくだりは、どうやらだだ漏れだったようだ。
後ろでは、笑うやっちょと渡辺君に、ヘッドロックをかける純ちゃん。
本当に、この人たちには敵わないなあ、と思いながら、ひろくんが向けたカメラにピースした。
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