3年生-春-12

 「したら明後日由比ちゃんと顔出すんだよ?よろしくね!杏ちゃんもゆっくり休むんだよ~!」

どうやら話にケリがついたらしく、律子おばちゃんのワゴンRがすべるように発進した。

手を振って挨拶し、ダラダラしている勝兄を横目に、軽トラの助手席に乗り込む。

座席が直角なので、嫌でも背筋が伸びる、軽トラ。

銜えタバコの勝兄が乗り込む。

よし、帰りますかね~。

軽トラの灰皿にタバコを押し付け、エンジンをかける勝兄。

きちんと消していないので、細い煙がユラユラ漂う。

ガサガサと消しきり、灰皿をしまうと、右から、「お、わりいな」と、勝兄の声。

なんでこんなに臭いものが好きなのだろうか。窓を全開にする。

山崎先生も、よく美術準備室から出てくる。愛煙家のたまり場から。

大人の世界は、よく分からない。

 

「楽しかったか?」

勝兄の声。乱暴なようで、優しい、一番上の兄。

柚姉と一緒で、大学時代に家を離れていたので、幼い頃の勝兄の記憶はほとんどない。

帯広に行っていた勝兄が戻ってきたのが小学4年の時だった。

見た目も声も性格も、全てが豪快な勝兄。怖くて最初はずっと修兄の後ろに隠れていたものだ。

「うん、楽しかった!ヒッチハイクは時間がなくて出来なかったんだけどね。

お釜がね、すっごかったよ。もうさ、一面エメラルドグリーン!ちょっと表面が凍ってて、それがまた綺麗だったなあ」

「おぉーなっつかしいべなあ。あれ、あのお釜のよ?ちょっと下の蕎麦屋行かしてもらったか?あそこがまったうまいんだわ」

修学旅行のことを話しながら、右手を、そっと、反対の手首に添える。

そこに痣ができたのは、もう、10日以上前のこと。

でも、まだ。つかまれているような気になってしまう。

 

 

結局馬場さんを無視して、やっちょはノソノソとどこかへ行ってしまった。

馬場さんが沈黙する。なんとなく気まずい空気。

突然、加奈が私にしなだれかかってきた。

「ねえ、お腹大丈夫?部屋戻った方がいいんじゃない?」

前の日の夜に生理が来た私の体調を心配して、周りには聞こえないボリュームでたずねてくる。

しっかりと薬を飲んだものの、日中の市内観光では、時折加奈にフォローしてもらわないと辛い時があった。

それでも、夕食後、その場に残った。

純ちゃんと渡辺君の雄姿を最後まで見届けたかったし、何より隣にいた2人のことが気になって、動けなかった。

とうとう加奈が痺れをきらしてしまった。

「うん、また加奈に迷惑かけるのも申し訳ないもんね。ちょっと先に戻ろうかな」

いつの間にか、馬場さんも近くからはいなくなっていた。

 

その時丁度、「石狩川」のイントロで。

校内放送のおかげで、この歌を知らない生徒も教員もいない。会場の熱気は最高潮になった。

「あ、でも石狩川だけ聞いて帰る!これ、楽しみにしてたんだよね!」

急にテンションが上がって声が大きくなってしまった私に対し、ため息をつく加奈。

「後で苦しんでも知らないんだからね」とかなんとか言っていたが、さらっとスルーした。

何気ないふりで周りを見れば、ステージの1番近くに今時4人組を発見する。

今度はやっちょを追いかけていかなかったようだ。

純ちゃんと渡辺君の歌声に、皆の熱気。

1人いなくなるやっちょ。

否応なしに、あの、文化祭を思い出していた。

 

石狩川はすごい人気だった。

皆立ち上がり、歌う2人がいるステージへ詰め寄っていた。

先頭には、馬場さん。

私も立ち上がったが、軽くめまいに襲われ、うまく体を支えられない。

とん、と、加奈にぶつかってしまった。

「ほら見なさい。杏は部屋に帰るの!」

そんなことを言われた気がする。

 

なんとか宴会場を後にするものの、加奈の華奢な体では、私を支えるのもひと苦労だ。

いつもは好きな加奈の甘い香りも、貧血でくらくらする時には、なんだか気持ち悪い。

「大丈夫、1人で部屋行けるから。加奈ありがとう。宴会場戻って?」

「全然大丈夫じゃないでしょうが」

「いや、ほんと、ほら」

1人で立って見せて、歩き出す。後ろから、ため息と軽い足音。

きっと、私が引かないのを察して後ろから付いてきてくれているのだろう。

こういう時、加奈は絶対最後まで見守ってくれる人だから。

振り向いて、大丈夫だよと言うものの。

うるさいわね、さっさと歩きなさい!

と、一括されてしまう。

それにしても、座っていると貧血というのはなかなか分かりづらい。

ふらっと、このまま、壁に寄りかかろうと思った時。

柔らかい匂いに包まれた。

加奈のそれとは違う、懐かしくて、安心して、でもなんだかザワザワする匂い

「あら、丁度良かった。この子なんだか調子悪いみたいなんだけど、あたしじゃ抱えきれないから連れて行ってくれない?」

無言で、やっちょが私を抱えなおした。

 

どうしていつもこんなにタイミングよく助けてくれるのだろう、この人は。

いつもノソノソ動いているくせに、こういう時は驚くほど行動が素早い。

あの夏の日、江別の駅から私の家まで自転車で送ってくれた時も、文化祭の日、オニグルミの木まで連れていってくれた時も。

…視聴覚室で転びそうになった私を受け止めてくれた時も。

左腕を担がれ、右のわき腹にはやっちょの手。

担がれた左の手首は、優しく、添えられる程度に握られていた。

桜の下で握られた場所。

 

こんな場面を誰かに見られでもしたらきっと大事になってしまうだろうから、と言いたいのに。

黙々と私を抱えて歩くその人の周りの空気が、なんだかいつもと違って怖い。

不機嫌ではなく、明らかに怒っているやっちょというのを、私は見たことがない。

だから、その時のやっちょが怒っていたのか、怒っていなかったのかも分からなかった。

貧血も手伝っているのだろうか。何も言えない。

 ジャズだけが静かに響く、旅館の廊下。

こういう時こそ、加奈の出番のはずなのに、何か喋ってほしいのに。

期待も空しく、彼女は何も話さなかった。

 

なんとなく気まずいまま、加奈が部屋のドアを開けた。

「あとはあたしで面倒みるわ。ありがとう山野君」

もう、抱えられてはいなかった。

開いた入り口の向こうには、ここまで連れてきてくれた人。

 

別に、と。加奈に向けての台詞。

いつものようでいて、いつもと全く違う声。

本当、ごめん。なんか、迷惑かけちゃって。もう大丈夫」

渡辺君の笑顔をイメージして笑いかけてみる。

でも目の前の人には通用しないだろうことも、分かっていた。

 

「なら、無理すんな」

ため息のように、低く、小さく出されたその言葉。

ボスっと私の頭の上に何かを乗せて、ノソノソと帰ってしまった。

滑り落ちてくるビニールに入ったホッカイロ。

受け止めた私の手の中を覗き込み、それまで無口だった加奈が言った。

「あら、誰かさんにはしっかり生理中だってばれちゃってたみたいね?そういえば、今日は珍しくずっとちゃんと皆と行動してたわね~」

 

ほら、あんたはそれお腹に当ててもう寝なさい

言われて布団に入った。

でも案の定、なかなか眠りにはつけなかった。

貧血のはずなのに、妙に顔が火照っていたせいで
 

 

 3年生-春-オールアップです。お読みいただき、ありがとうございます。

小話をはさみ、4章へ続きます。

 

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