赤いスポーツタオル

その日、高瀬弥生の機嫌はすこぶる悪かった。

ゴールデンウィークだというのに、祖父母が移り住むという江別まで、引越しの手伝いをしなければいけなかったからだ。

祖父母は自分達でやるからいいと言っていたが、弥生の父親は、そういうイベント事には必ず参加する主義の人だったので、

大通りに友達と買い物へ行くところだった弥生も強制的に参加することになってしまった。

 

急かされながらもファミリーワゴンにノロノロと乗り込む。

少し背伸びをしたフリルのミニスカートがなんとも空しい。

弥生の通う中学に入学したばかりの2つ下の弟は、野球部の練習試合だそうでとっくに出かけていた。

丁度江別の中学校で練習試合があるらしい。

家族で応援してから、祖父母と落ち合い、引越しを手伝う予定なのだ。

大して野球に興味のない弥生であるから、余計に気分が滅入った。

 

地下鉄南北線の澄川駅から徒歩10分、平岸中学校からすぐの家を、ゆっくりとファミリーワゴンが出発する。

環状通を抜け、国道273号線に出る頃には、辺りの景色はもう札幌市内のそれとは様変わりしてきた。

こんな田舎には用がないのにと、人知れずため息。

 

なんでよりによって今日引越しするかな。

 

怒りの矛先は父親だけでは収まらず、この日に引越しを決めた祖父母にも向かってしまう。

自分をかわいがってくれる祖父母は元々函館に住んでいたので、一時間程で遊びにいける江別へ来てくれるのは嬉しい。

しかし、今日の買い物の予定は、仲の良い友達5人と春休みから計画していたのだ。

修学旅行で着るものや、夏にかけて着る服を皆で買いに行こうと。

その為にお年玉も、普段のお小遣いにもなるべく手をつけず、必死に貯金してきたというのに。

 

仏頂面で降りたそこは、見知らぬ学校の駐車場。

まばらな応援の一団に混じる家族を尻目に、1人になれる場所を探す。

ぐるっと見物がてら校舎の周りを歩いていると、くるみの木に隠れるようにひっそりと佇むベンチを見つけ、これ幸いと腰を下ろした。

カキンという音と、一斉に出される声の方へと目を向ければ、同じ年頃の男子がうじゃうじゃいる

恐らく知り合いもいるだろうが、野球部の男子に弥生は興味がなかった為、見つけようとすることもしない。

グラウンドには、荷物を片付けるもの、ランニングをするもの、フリーバッティングをするもの、様々で、でも皆が一様に真剣な顔。

いくら野球に興味がない弥生でも、気持ちのいい青空の下で繰り広げられるそんな光景に、しばし見入ってしまった。

バットらしきものが入っている円柱の大きなバッグを3つかかえているのは、弥生の弟、義之だ。

普段見ているヘラヘラナヨナヨした弟とはかけ離れた、引き締まった顔で先輩の指示を仰ぐ姿に、僅かな嫉妬心。

 

「なんかずっるいわあ」

茶道部に所属するものの、真面目な活動など皆無の弥生。

まだ何かにとことん取り組んだことのない自分が妙に小さく思えてしまい、思わずつぶやいた一言。

「何がだ」

まさかその独り言に返事が返ってくるとは思っていなかった弥生は、慌てて声がした方を振り向く。

腕組をして、赤いスポーツタオルを首に巻いたユニフォーム姿の少年は、少年というには少し体格が良すぎた。

思わずまじまじ見る弥生に物怖じすることもなく、しかし少し不機嫌そうにその場に立っている。

額にうっすらと汗。恐らくランニングをしていたのだろう。

すぐ近くをランニングの一団が通り過ぎたばかりなのだから。

「見たことないやつだな。平岸の応援か?応援するならあっちにいけ。ここはたまにボールが飛んでくるからな」

どうやらこの学校の生徒と見える少年は、そのままランニングの一団に合流していった。

 

今の人、でっかかったな。

 

ボケッと、そんなことを考えていたら、練習試合が始まった。

義之はどうやらベンチにも入れていないらしく、バックネット脇で、交換用のボールをひたすら磨いている。

なんだと思って周りを見渡せば、意外に近くに先ほどの少年を発見した。

あそこはライトだっけ、レフトだっけ、と考えながら、妙にその少年を気にしていた。

誰よりも大きい、少しかすれた声が耳に、大きな体がしなやかに躍動するのが目に心地よくて。

 

腰を屈め、グローブの先を土につけて捕球の体勢を取っていた少年が、いきなり弥生の方をを振り向いたのは、バッターが2人程入れ替わった後だった。

猛ダッシュで近づいてくるのに何事かと思えば、

「ボールあたるぞ!どっか逃げろ!!」

とドスの効いた声で叫ばれ、咄嗟に胡桃の木の陰に隠れようとする。

瞬間。

馬鹿かお前は!

叫び声と、左肩を引っ張られる感触。反動で転んでしまう。

バン!という音に思わず瞑っていた目を開け上を見れば、グローブを高く掲げている左腕と、大きな大きな背中が、弥生の視界を覆っていた。

 

アウト!チェンジ!の声とともに、一斉に選手達が入れ替わる。

ぐいっと腕を引かれ、面白いほど簡単に自分の体が持ち上がるのを感じながら、弥生は立ち上がった。

「わざわざ打球の落下地点に入る奴がいるとはな。だから言っただろ。今度こそあっちに行けよ」

お礼も言えないまま、走り去る少年の背中を見送った。

 

ノロノロとグラウンドの脇を歩いていると、こちらへとやってくる両親。

お説教を聞き流しながら、応援席へと向かう。

すると、先ほどの少年が素振りをしているのが見えた。

思い切って近くに行き、声をかける。

「あの、さっきはありがとう」

弥生を一瞥した少年は、一旦ベンチへ戻り、何かを持って戻ってきた。

少年が差し出した手には、赤いスポーツタオルと消毒液。

「無理に引っ張って悪かった。使え」

その台詞の意図するところが分からず、視線の先を戸惑いながらも追っていけば、膝小僧が擦りむけていた。

気合を入れて今朝はいたミニスカートが、ひらひらと揺れている。

急に弥生は、自分が場違いな格好をしていることが恥ずかしくなり、俯いてしまう。

「あ、いや、あたしがいけないんだし。大丈夫だから」

「消毒、しとけよ」

タオルを押し付けられて顔を上げれば、走り去る少年の耳が赤くて。

思わず弥生の顔も赤くなり、ニヤニヤ顔の両親を無理矢理どけながら腰を下ろす。

 

試合はなかなか引き締まったいいゲームになっていた。

その中でも、あの少年は目立っていて、4回、満塁のチャンスにホームランを打っていた。

相手チームの選手に拍手して、周りから白い目で見られた弥生だったが、よくよく見れば、野球は面白そうだ、と思い始めていた。

それが何を意味するのか、しないのか。


 

その後、野球の大会を見学しに行ったり、

プロ野球中継を毎晩見るようになったり、

スポーツタオルがお守りになったり、

翌春とある高校のグラウンドで、少年と再会したり
 

自分の未来など知る由もなく。

膝の上に載ったスポーツタオルを握り締めながら、結局生まれて初めての野球観戦をたっぷり楽しんだ弥生だった。

 
 

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