東京・2

チェックアウトを済ませ、ホテルのロビーから一歩踏み出した途端に、外へ出たことを後悔する。

振り返って「もう一泊」、とフロントに駆け出したかった。

まだ10時前だというのに、この暑さはなんなのだろう。

所々景色が歪んで見えるのは、恐らく陽炎が大量発生しているから。

そのせいでさらに不快指数が上昇する。

さらに自分の右手には、20キロ程の荷物が詰まった、大きい大きいスーツケース。

ガラガラとこれまた不快な音を立てる。

キャスター付のくせになぜこんなにも重いのか。

こんなことならケチらずに、成田空港で実家に送ってしまえばよかった。

たかだか2千円程の送料だったが、現金をあまり持ち合わせていなかったので、夕食に回そうとしたのだ。

しかし、期待値があんなに高かった夕食も、結局食べ損ねてしまった。

20時間以上何も食べていないことにいまさら気づき、ため息。

そのため息まで生ぬるくて気持ち悪い。参ってしまう。

朝と言ってもいい時間帯なのに、周辺の飲食店から既に漂っているおいしそうな匂いも、私には拷問でし

ない。

これは牛丼で、これはカレーで、これは鰻のような…などと、無意識で匂いの正体を思い浮かべそうになっ

て、慌てて首を振る。

あまりの空腹に、胃の辺りがきゅっと絞られる感覚が襲っていたが、いかんせん右手で引っ張っている代物

があっては飲食店には気軽に入れないのだ。

 ハンカチをかみ締める思いで、泣く泣く歩みを進める。

羽田に着いたらさっさと荷物を預けてお寿司を食べてやろう、と。

 

 

羽田に着くと、まずは手荷物カウンターに不幸の元凶であるスーツケースを預けた。

400円を支払い、身軽になった体でレストランがある階へと上がる。

目指すは寿司屋。

丼にしようか、握りにしようか、それとも巻きにしようか、ルンルンと通常よりも長いエスカレーターで脳内会議

が始まっていた。

 

はやる気持ちを無理やり抑えながら辺りを見る。

丁度左下にフードコートが見えた。食欲をそそる香りが立ち込めている。

勢い良く鳴り出すお腹を必死で押さえつけ、そ知らぬふり。

地元の札幌ならいざ知らず、ここは東京。

きっと皆忙しくて他人の腹具合なんて気に止めることなどないだろうと思っていたが、後ろから「ぶふっ」とい

声が聞こえた。

もしやと思うものの、人間は自分に後ろめたいことがあると自意識過剰になってしまう生き物である。

いかんいかんと考え直した。

きっと何か面白い雑誌をわざわざエスカレーターで読んでいて噴出しでもしたのだろうと結論付け、一旦エス

レーターを降り、すぐさま3階へと続くエスカレーターに乗り込む。

 乗り込んだ瞬間、またなんとも大きな音量で、しかも5秒ほどもの長時間、私の腹の虫が暴れてしまった。

「ぶふーっ!!!」

恐らく同じ人物だろう。「ぶふ」と噴出す人間が、このタイミングで、しかも私のすぐ後ろで、2人も現れるとは思

ない。

こういう時、自分が田舎人間でよかったと感じる。

振り返って「すいません」と笑うことに、何の躊躇もないのだ。

 

「すいません、うるさいですよね?」

2段分下にいるはずの笑い上戸に振り返って田舎臭い笑顔を向けると、その人物の頭は私より少しだけ低いく

だった。

1段15センチくらいと考えると、恐らく余裕で180センチはあるだろう長身の男性が、右手で作った拳を口元に

て笑いを堪えていた。

「いえ、こちらこそすいません。あまりに気持ちよく何回も鳴るものだからついつい笑ってしまいました」

ガッシリとした体つきに、申し訳なさそうな表情。年のころは30前後だろうか。

顔つきはのっぺりとしていて、お地蔵様を思い出す雰囲気の男性だった。

「これから食事ですか?」

お地蔵様に問われ、こちらも負けじと申し訳なさそうな笑顔を崩さないように気をつけて、軽く頷く。

「そうなんです。もうお腹が減って死にそうで。お寿司でもと思ってます」

言い終わったところでチラッと前を見ると、エスカレーターの終わりは目前で、慌てて降りる。

段差がない場所だと、やはり首が疲れるほどこちらが見上げなければいけない男性だった。

エスカレーターから降り立つ時にも長く低音の音が鳴り響き、見上げる対象は、またもや拳を口に当てていた。

「そうですね。早くそのお腹を満たしてあげるといい。この階にある日の出っていう店がおすすめですよ。焼きさ

寿司がおいしかった」

そう言ってお地蔵様は軽く会釈をしながらエスカレーターを上がっていった。

こちらも慌てて去ろうとする背中に「ありがとうございました」と声をかけた。

振り返りながら人のいい笑顔で上へ上がっていったお地蔵様。

良いことを聞いたと早速言われた寿司屋に直行する。

 

お地蔵様の言うとおり、焼きさば寿司は腹の虫を存分に満足させてくれた。

その虫を飼っている部分をさすりながら、勝手に抱いていた田舎モノの偏見を反省する。

まさか東京で見ず知らずの人とにこやかに話すとは考えてもいなかった。

お茶をすすりつつ店内の時計を見上げると、まだ12時にもなっていない。

おぼろげな記憶を辿ってみる。

確か地下に喫茶店らしきものがちらほらあったような気がする。

手荷物を預けているのも地下。どうせなら同じ階の方が都合がいい。

その近くにあった本屋で雑誌でも買って暇をつぶすことにした。

 

 

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