「そういえば、井上さん元気?」
いつからだったろうか。
修兄から加奈の調子を聞かれるようになって、もう大分経つ。
白い皿のなかは、千切りにされた青じそが数本に、少し赤みを帯びた、繊維状のツナ。
空腹だった。
ものの十分としないうちに、食べ終わってしまっていた。
修兄もそうなのだろう。
皿を通路側に寄せて、今は水を手にしている。
それに倣い、私も水へと手を伸ばし、一口飲んでみる。
融けてしまった氷の味だろうか、かすかに感じる、冷蔵庫だか、冷凍庫だかの匂い。
「元気だけど大変そうださ」
グラスをくるくる回しながら、ここ最近の加奈を思う。
融けて丸く、小さくなった氷が、グラスに当たって涼しげな音を出す。
「なんかあったのか?」
修兄の顔が少し曇る。
「なんかね、ここ2ヶ月くらいで急に人気者になっちゃって、あしらうのに疲れてるみたい。特にサッカー部の1年生がしつこいんだよね」
実際、その1年生は強烈だった。
「井上先輩!」
中間テストも終わり、運動会も春季大会も終わり、ほっと一息ついた6月の半ば。
加奈と職員室に日誌を提出し、教室へと戻る廊下で、背後から声がかかった。
振り返れば、ひろくんより少しガタイがいいくらいの男の子。
まだ詰襟が新しいし、見たことのない顔だったので、1年生だろうと思った。
加奈を呼び止めたその男子は、ものすごく真剣な顔。
私のことなど眼中にないといった感じで、加奈をじっと見つめている。
隣の友人はといえば、あからさまなため息。
「しつこい男は嫌われるわよ。覚えておきなさいね」
あまりにもあっさりと、教室へと向かって歩いていく。
「俺、本当に井上先輩が好きなんです!先輩に好きな人がいたって、関係ないですから!」
加奈の背中に叫んだ声は、まだ変声期を迎えたばかりの、少し高くて、少しかすれたもの。
練習を始めるのが早い野球部。
開いた窓から純ちゃんの声が良く聞こえる、ある日の放課後。
「加奈、好きな人いたの!?」
先に教室についていた加奈に詰め寄った。
声を荒げながら顔を覗き込めば、なんとも苦々しい顔の加奈。
「知らないわよ。堀君が勝手に勘違いしてるだけでしょう?」
「…そうなの?」
「…何よ」
「いやさ、加奈のそういう話って聞かないなと思って」
「好きな人なんていないわよ。今までいたこともないわ。これで満足?」
「まあ、わかったけど…何でそんなにイラついてるの?」
大きなため息をつき、椅子にもたれかかるのを見ながら、自分も前の席の椅子を引っ張り、加奈の正面に座る。
「ごめん。最近ああいうのが多くて、正直参ってたのよね」
「ええ!?ああいうのって、その、なに、あの、こ、告白とか、そういうやつ?」
「もっと生ぬるい感じよ。好きな人いるんですか、とか、応援してます、とかね。勘弁してほしいわ」
「でも、その、堀君はそういう感じには見えなかったけど」
「彼は…そうね。言われたわよ、はっきりと。で、あたしもはっきり断ったんだけど、しつこいのなんのって」
そう言いながら窓の外を見る加奈は、お世辞抜きでかわいい。
私の立場からすれば、やっと加奈のかわいさが世間に認められ始めたのだと思うと、誇らしくてたまらないのだが、本人はそうでもないらしい。
「そっか。大変なんだね、そういうのって」
少しの沈黙。
窓の外はまだ青空。
教室にはもう誰もいない。
中途半端に放って置かれているクリーム色のカーテンが、窓から舞込んだ風に、ふうわりと揺れる。
「あたし、そういうの今はいらないのよね。好きな人が出来たら、ちゃんと杏に言うから、安心して」
加奈の横顔を見ながら、先ほどのことを思い出していた。
「それでね、加奈の後を追いかけようと思ったら、堀君に呼び止められて」
すっかり氷が融けてしまったお冷。
まわりについている水滴で、指先が濡れているのを感じながら、修兄を見る。
「それで聞かれたの、加奈の好きな人が誰か知りませんかって。どうしてそう思うのって聞いたのね。そしたら…」
「最近いきなり綺麗になったって言ってた?」
思わずまじまじと修兄を見てしまう。
高校の時から使っている、トランスコンチネンツの財布を取り出す姿を、じっと、見つめてしまう。
「ん?どした?」
「な、なんで分かったの!?」
身を乗り出して修兄に聞くと、苦笑しながら言われる。
「キョウ達くらいの年代の女の子ってさ、急に変わるんだよ。いきなり綺麗になんの。それに男はびっくりしてさ。しかも単純だから、好きな奴でもいるのかって、焦るもんだよ。俺もあったしね」
苦笑しながら言う修兄。
だけど、修兄が焦っている姿なんて、全く想像も出来なかった。
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